本研究は、現在も関東地方の各地に伝承が残されている「鎌倉街道」と、中世の文献史料から把握される鎌倉時代の幹線道路との関係を探りながら、鎌倉幕府の支配体制の歴史的特質を、幹線道路の設定・整備・管理の側面から明らかにしようとするものである。今年度は、近世における「鎌倉街道」伝承地の分布をまとめ、総括するとともに、中世史料から鎌倉時代の幹線道路の実態を探りながら、鎌倉幕府の交通政策の検討を行った。 1、関東地方に残されている「鎌倉街道」伝承地については、『江戸名所図会』ならびに『新編武蔵風土記稿』から網羅的な収集を行った。これらの伝承地を地図上に落とすと、鎌倉街道として通常理解されている上道・中道・下道に沿って基本的には分布しているが、例えば、上道と中道を東西に結ぶルートについても、「鎌倉街道」と呼ばれていることがわかり、鎌倉時代の交通網の実態を考える手がかりを与えてくれている。またそこで唱えられている源頼義・義家の奥州合戦伝説については、武家の正統イデオロギーが民衆化したものとして理解した。 2、鎌倉時代の幹線道路の実態については、『鎌倉遺文』や『吾妻鏡』などの史料をもとに検討を行った。上道・中道・下道の「鎌倉街道」は、鎌倉幕府成立上大きな役割を果たした秩父平氏の所領を結ぶものであり、鎌倉幕府の成立状況を色濃く反映するものであった点を考察した。そのなかでも特に、鎌倉から武蔵・上野・信濃へと向かう上道は、源頼朝が狩猟や善光寺参詣などでしばしばそこを通行することによって、道路整備が促され、また沿道の御家人との主従関係も繰り返し確認されていることを明らかにした。鎌倉街道は「いざ鎌倉」の際の軍用道路であったとよくいわれるが、その性格はこの上道に最もよくあらわれており、上道沿道の御家人の鎌倉幕府軍制上における位置の重要性について提起を行った。
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