本研究の意図は、従来ややもすれば等閑視され、殆ど利用されてこなかった外務省記録「支那馬賊関係雑件」などの記録に照明を当て、戦前期の日中関係に横たわる外交案件の底辺に存在する問題の実態を、社会史的視点から究明していくことにある。当初、本研究では、中国内陸部の匪賊問題も含めた包括的なデータベースの作成を計画していた。しかし、早期の調査段階で膨大な関係記録の存在が分かり、急遽明治期に期間を限定し、「満洲馬賊」の問題に範囲を局限して行わざるを得なかった。 本研究の成果は、第一に、関東都督府の報告や奉天総領事ら満洲各地の領事館の報告(領事警察を含む)から、馬賊被害事件の日清交渉、邦人の馬賊参加問題、馬賊取締をめぐる日本側の警察権の問題に関し新たな知見を得た。また同時に当該記録が成立する要因とその性格を解明することができた。第二に、在満各領事館の内密調査による満洲各地方の多数の馬賊頭目・小頭目らの出身地・前歴・年齢・結党時の構成員・武器・服装・馬匹数・勢力範囲・根拠地などの詳細な報告書から馬賊の実態が判明し、他方、東三省総督の指揮下にあって満洲の治安維持に当たる巡防隊や巡警局の幹部に多数の元馬賊出身者が就任している事実も分かった。こうした貴重な研究素材を全て「成果報告書」に収めたことは何よりも大きな成果で、別紙や附属書も含めれば収録文書数は445文書に及ぶ。第三に、満洲の中国社会で一般に「紅〓子」と呼称された匪賊を、なぜ日本人が「馬賊」と呼ぶようになったのかを、明治前期に遡って明らかにすることができた。ただし、「馬賊とは何か」や大正・昭和期の「馬賊取締問題」について纏まった叙述をなすに至らなかった。これは、今後の研究課題としたい。
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