本年度の研究は、秦簡・楚簡からみた中国古代の地域文化研究の最終年度として、長江上流域(巴蜀文化)、中流域(楚文化)に続き、下流域の百越文化と南越の問題を検討した。周知のように、秦は六国統一後、百越の居住する江蘇・浙江地域に進出し、この地域を支配した。秦が滅亡すると、それに乗じて秦が嶺南に置いた南海郡尉趙佗が他の二郡を併せて独立し、南越王国を樹立した。本研究においては、この南越王国の建国から前漢武帝による滅亡の間における漢と南越の関係を詳細に分析し、以下のことを検証した。 もともと秦漢の対外政策は、対匈奴関係を中心とするもので、そのためにもとくに前漢は後背地を確保する必要があり、その意味で防衛的な性格を具備し、それがまた同時に執拗な対(閩越)南越政策として現れた。やがて南越が滅びて、南方がそのような役割を終えると、前漢の対外政策は一転して積極的なものとなり、具体的には西南夷・朝鮮半島へ帝国主義的進出に転換してゆくことを実証した。一方、前漢の外臣となって服属すると共に、嶺南において自立的な政治秩序を形成した南越の、アンビバレントな立場を、最近公表されたばかりの南越国木簡によって実証した。 上流域の巴蜀文化については、基本史料である『華陽国志』の問題点が残されていたので、その問題を「四川の古蜀文化-三星堆・金沙遺跡」(『アジア遊学』96、勉誠出版、2007年2月)で概略を指摘した。 なお、楚文化の在り方を検証した「楚文化圏の卜筮祭祷習俗-上博楚簡"柬大王泊旱"を中心に-」(『長江流域文化研究所年報』第3号(早稲田大学長江流域文化研究所、2006年2月)は、『簡帛』第1輯(武漢大学簡帛研究中心、2006年10月)に「楚文化圏所見卜筮祭祷習俗-以上博楚簡《柬大王泊旱》為中心-」として中文訳された。
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