1909年5月、ロシアの探検家コズロフがエチナ河畔で発見、収集した大量の西夏語書籍・文献は、20世紀西夏学の確立に大いに寄与したことで知られるが、そのなかには北宋末、南宋初めの紀年をもつ文書が含まれていた。それは1984年、それまで長年にわたり文書整理に従事してきたソ連科学アカデミー東方研究所(当時)メンシコフ博士の漢文文献目録の公表によって初めて明らかになった。やがて2000年12月、その文書の写真版と移録文が上海古籍出版社から公刊され、われわれはようやくその文書を目にすることができるようになった。そのため一昨年ころから、中国で、この文書の一部を使用した論考が発表されるようになったが、それらはほとんどが文書一部の簡単な紹介にとどまり、文書の内容を分析したり検討する論考はまだ出ていないようである。その理由は、北宋の年号をもつ官文書が他になく、文書の内容も断片に過ぎて、読解が非常に困難だからである。 それ故、本研究は、基礎的事項の解明を目指し、まずできる限り正確な訳注を作成することを試みた。109葉全部は、内容が分散しているようで、2年間では無理と思われ、まず一番関連文書の多い、宣和7年の年号をもつ陝西鄜延路経略安撫使下の第7将の裁判案件文書を対象に読解を試みた。通常の編纂史料や文献にはみえない用語に苦しみ、また事件の全体像が見えてこない文書の残存状況の限界はあるものの、9割程度の分量に訳注を加えることが出来た。軍人を対象とするという特殊状況のなかで、しかも辺境の前線部隊の事件に驚くほど細かな審理手続きがなされていることが明らかになった。さらに法制史のみならず軍政史、民族問題などにも豊富な内容をもつ文書であり、今後の研究の展開が待たれる。
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