平成15年度には筆者の今までの研究実績を踏まえ、あらためて明朝の対外政策の枠組みを考察し、問題点を分析した。その一つに、関連用語の定義づけに関する問題がある。もともと「海禁」という言葉は「下海通番の禁」の略称で、明中期ごろから使用され出すが、密貿易の禁止を含意する明中期の海禁の概念でもって、他の時代の「海禁」を理解するのは危険である。例えば元代に4度発令された「海禁」は、商人の出海を禁止するものであり、そこには一般民の出海は想定されていなかった。これに対して明の極初の「海禁」は、一般民が出海して海賊・倭寇と結託するのを防止する措置であり、密貿易の禁止というよりは国内向けの治安維持策であった。このように、内実・目的に大きな相違のある海洋政策を、下海禁止の措置にのみ着目して「海禁」という言葉でくくることは、その本質を見失いかねない。 同様に言葉だけが先行しているものに、中国人研究者が多用する「閉関」と「開放」という概念がある。閉関は「閉関鎖国政策」などとも言われるように、海禁とほぼ同義で使用されるのが一般的である。かたや開放は隆慶元年(1567)の海禁の一部解除を「開放」と表現するように、閉関と開放とは対概念の関係にある。しかし他方で海禁下に行われた鄭和の南海遠征を、積極的な開放政策ととらえる見方もあり、その概念規定には一定性がない。こうした混乱は政治的意味合いの強い朝貢制度(朝貢貿易)と、純粋な経済行為である民間交易とを明確に区分していないところから生じたものと考えられる。以上、二例ほど挙げたが、このような概念規定の不分明さが、明朝の対外政策の統一的理解を妨げているものと思われ、目下その点を検討・分析しているところである。なお、当初予定していた中国人研究者との共同研究は、SARS問題もあって訪日が叶わなかった。来年度以降には実現したいと考えている。
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