今回の研究では、文学作品の中で描き出された、いわば空想の中のビザンツ帝国像を検証することで、同時代の西欧人の心の中で、ビザンツ帝国のイメージがどのように増幅、デフォルメされていったのかを明らかにしたいと考えた。具体的には以下の二つの文学作品を対象に考察を行った。最初に検討を加えたのは、クレチアン・ド・トロワ作の『クリジェス』である。考察の結果、主人公のクリジェスが好意的に描かれているのは、彼が西欧の価値観を受け入れ、西欧の優位性を認めている限りにおいてのことであったこと、そして真に主導権を握っていたのは西欧から輿入れしてきた皇妃の方であり、そこには道徳的に劣った東方を理性に優れる西方が指導し、正しい方向に導いてやるのだという西欧側のイデオロギーが色濃く反映されていたことが確認された。次にゴーティエ・ダラス作『エラクル』を第2の分析対象として取り上げ、そこから読み取れる中世フランス人のビザンツ観の析出を試みた。この作品は、7世紀前半のビザンツ皇帝ヘラクレイオスをモデルに、彼のペルシア遠征と真の十字架奪還の偉業から想を得た物語であるが、史実はかなり自由に改変されている。作者はここで、その多くが東方起源と思われる多くの説話や伝承を集め、それらをパッチワークのように巧みに繋ぎあわせることで、ひとりの英傑の人生絵巻を紡ぎ出しているのである。作者は一連の創作の結果、西欧出身の皇帝による東方の帝国の救済、という西欧人にとっては誠に都合のよい筋立てを成立させることになる。ここにも、自己の正義を疑わず、自分たちの支配権の拡大が世界を救うと素直に信じて込んでいた当時の西欧人の自己中心的な純朴さが確認されるであろう。
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