1861年の農奴解放以後の近代化政策の過程で、慣習法の世界に生きていた農民を西欧的な私的所有権の絶対を基礎とする新民法にいかに包摂しようと政府は試みたのか、農民の法実践はどのようなものであったのかを明らかにすることが本研究の目的である。その際の議論の焦点の一つは農民の所有観念である。農民は私的所有権と矛盾する「家族所有」といわれる観念を農民は有していたと考えられており、その実態分析と法的扱いが問題を解く鍵であった。この点につき、農民の裁判例、各種政府委員会と論壇での議論について資料を検討した結果、以下のような結論を得た。農民財産の特殊性について政府は19世紀半ばにはすでに注目しており、農奴解放令で個人所有権を意味する条項を挿入しようという考えにたいし、家族の共同所有を主張する考えが対立し、法令上の混乱が生じた。しかし司法政策では、農業経営の安定性にたいする配慮から一貫して農民財産を家族所有と認定しつづけた。実際の農民法慣習では、郷裁判所が怠惰な家長にたいする権利の制限を命ずるなど、たしかに家族所有とみられる裁判例が豊富に存在する。他方で家長の事実上の財産管理権は健全経営をおこなっている限り無制限であり、この点をみれば家長の個人財産と考えることもできる。さらに時代が進むと、家族メンバーの労働による個別財産がふえ、農民世界に個別所有権の概念も広がってきた。世紀転換期には家長の個人所有権と家族メンバーの世帯財産にたいする権利の間で闘争が生じるようになったと考えられる。そして遂にストルィピン改革では家長の個人所有権が法的に認められるようになった。それが農民の法慣習の変化を法律が追認したものであるか、あるいは政府による積極的な政策の転換であるかについては、これからの課題として検討したい。
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