本課題は、古典期アテナイ市民社会内部の人的紐帯のありかたを、「復讐」の語を出発点として考察しようとするものである。そもそも復讐は、友愛の絆を深めるとともに、市民共同体内部の紛争ももたらす要因であった。それゆえポリス共同体の秩序維持のためには、無制限の復讐は抑制される必要があった。その制御装置のひとつが民衆法廷での公論であり、無制限の復讐にとってかわったのが民衆法廷での刑罰であった。6月ロンドンで復讐をテーマとする学会が開催されたことは関心の高まりを示している。たとえばガガーリン報告は、アンティフォンの弁論におけるティモーリア(復讐)の語の用例に、私的感情を離れ抽象化・合理化された刑罰の成立を見出した。それに対して、報告者はより共時的関心から、法廷による刑罰それ自体のなかに、陪審員らによる復讐感情が前提とされていることに着目した。民衆法廷が感情的な場であることが近年強調されているが、陪審員が復讐感情を共有することが、刑罰を正当化することにつながっているのである。今年度は、デモステネスの『メイディアス弾劾』についてのケース・スタディをまとめる作業を継続するとともに、全法廷弁論における刑罰の語の用例を網羅的に検討した。その結果、たとえばガガーリンが刑罰の合理化をしめすものとして取り上げたティモーリアの語が、後期弁論にいたるまで報復の原義と切り離し難いことを確認した。これらは市民たちが私的感情をも含めた公私の紐帯のなかで、ポリスの訴訟制度をどのように運用していたのか、ということを、彼らなりの合理性のもとに説明しようとする作業である。最後に、訴訟制度、とくに共同体全体の復讐に該当する公的訴追制度の成立史の再検討にも着手した。なぜならば公訴制度の成立史自体、刑罰の成立という19世紀的枠組を踏襲しており、復讐と刑罰の関係を問うことは、その大幅な再検討につながるからである。
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