研究概要 |
極言すれば,少なくとも12世紀までのサン=ドニ修道院の歴史は捏造された伝説と偽文書によって形作られていると言ってもあながち的外れではないであろう。もとよりサン=ドニに限らず,すべての教会や修道院がその来歴を辿れば怪しげな聖遺物を基にした奇蹟物語に満ち溢れ,所有関係の確認を図って偽文書の山を築いたことは周知の事実である。サン=ドニに特徴的なことは,パリの郊外に所在したというその地理的条件もあって,メロヴィング,カロリングそしてとりわけカペーの各王家と緊密な関係を持ったことであり,従ってサン=ドニの活動が時の政治権力の動向に強く左右され,また逆に国王の政策に影響を与えることもあり得た。 サン=ドニ修道院はその名前の由来となった殉教者ディオニシウス及び同僚殉教者であるエレウティウスとルスティクスの遺骸とされるものを保有し,10月9日のディオニシウスの祝祭日を初め,折に触れてこれらの遺骸を主祭壇に安置して信者の尊崇を促した。ところが,いつの頃からかサン=ドニ修道院はキリストの受難に因む荊冠と聖釘という,聖遺物の中でも極めつきとも言うべき聖遺物を所有していることを誇り,特定の日にそれらの聖遺物を展観に供することによって多くの参詣信者を引き寄せていた。参詣人が施す献金だけでも相当の金額に上ったと思われるが,当然のことながらこれらの参詣人を目当てに商人が集まり,市に発展していったことが予想される。事実,中世において最大の定期市として発展するランディの大市はこれらの受難聖遺物を記念して開始されたと信じられてきたが,そこにはシャルルマーニュの権威を援用しながらサン=ドニ修道院が推し進めた巧妙な作為を認めざるを得ない。記録という形での(国王証書,伝記,歴史叙述,創作物語,偽文書等)サン=ドニ修道院の持続的努力を分析した。
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