長屋王政権の対地方政策に関する歴史的評価を考古学上から検討するため、今年度は、3つの視点を用意し、分析を行った。第1点は、最近の多賀城創建年をめぐる研究成果の再確認と太宰府II期政庁の成立時期の分析を行い、両者が養老四年の隼人・蝦夷の反乱を背景に、政府の同時政策によって成立した新たな地方統治機関であることを明らかにした。同時に、同期間の整備は、ほぼ同時期に独立して成立する諸国の国庁と一連の計画のもとで行われた可能性が高いと考えたが、この問題の解明については、次年度で行う予定である。第2点として、日本三戒壇の一つである下野薬師寺が官寺に列した時期の検討を行い、多賀城廃寺・筑紫観世音寺などの地方官寺の整備とともに、藤原氏が推進してきた寺院併合令を背景とした氏寺対策とが同時政策として実施されたことを明らかにした。さらに第3点目として、そうした国衙を中心とした地方官衙や、国府付属寺院ともいうべき地方官寺や氏寺の整備に到った直接的契機は、養老四年の藤原不比等の死を挟んで同時多発的に起こった隼人・蝦夷の氾濫によるものと考えられるが、その時に執った政府の対策は、単に辺境問題にとどまったのではなく、地方行政機関や地方寺院を含め全国規模で展開した大規模なものであった。その政策は、藤原不比等の跡を継いだ長屋王政権下で行われたが、同政権が、地方統治機関としての官衙・官寺及び氏寺の整備を大きく前進させ、中央集権国家体制を実質的に確立したことを評価した。
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