藤原不比等の後を継いだ長屋王政権が、律令国家体制のもとで、どれだけの政治的実績のあった政権と受け止めるのか、といった政策面での評価にまで踏み込んだ研究は、意外と少ない。本研究は、そうした課題を考古学の上から検討するため、多賀城廃寺、下野薬師寺、筑紫観世音寺およびそれらと関連した寺院・官衙、さらに諸国国衙、平城京などの遺跡をとりあげ、それらの新造・改作・造営促進などが行なわれた年代の検討を行い、これまで個別に進められてきた研究を、初期長屋王政権下で実施された対地方政策と位置づけ、その実態をもとに、政策面での同政権の評価を行なうことを目的とした。その結果、 (1)多賀城・多賀城廃寺および周辺諸城柵・官衙、坂東の下野薬師寺の改作、平城京内裏の改作、大宰府II期政庁の改作、さらには、独立した諸国国庁の出現など、地方の官衙・寺院の整備が、養老4〜7年の、わずか4年間に次々と実施されたことをつきとめた。 (2)そうした契機を、不比等の不予から死をはさんで相次いで勃発した隼人と蝦夷の反乱に求め、不比等から政権を引き継いだ長屋王政権が背負った最初の課題が、対地方政策であったと考えた。 (3)その際、多賀城・多賀城廃寺の造営に藤原宇合が、下野薬師寺・大宰府II期政権・鴻臚館の改作に藤原武智麻呂が直接的に、筑紫観世音寺の造営促進に藤原房前が間接的に関与したことを明らかにし、藤原氏の活躍が顕著であることを立証した。
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