新王国時代の岩窟墓研究は、これまで第18王朝の王家の出身地であった上エジプト第4ノモスであるテーベの西岸に位置する所謂「ネクロポリス・テーベ」を中心として実施されてきた。しかしながら、従来の研究の問題点のひとつに、岩窟墓の編年研究が不十分であったことを指摘することができる。ネクロポリス・テーベには、登録されているものでも415基を数える岩窟墓が存在しているが、編年の決め手として岩窟墓の壁面に記された王名などが利用されてきた。王名を基準として墓の編年を決めることは、再利用墓などのケースを含め極めて危険であり、誤った結論を導きやすい。まず再利用墓の実態を検討したところ、新王国第18王朝時代後期のトトメス4世からその後継者であるアメンヘテプ3世の治世下に造営された岩窟墓の幾つかのものが、第19王朝のラメセス2世治世下に再利用されていることが明らかとなった。このことから、岩窟墓の平面プランや内部の壁面装飾などが、第18王朝時代後期から第19王朝時代まで変化せずに使用され続けるとされていた従来の説は誤りであるとの結論を得た。岩窟墓の再利用だけではなく、第18王朝時代の王ごとの高官墓の分布を詳細に検討した。その結果、各時代の高官墓の水平分布と垂直分布とを考慮することで、各時期の岩窟墓造営の特徴を明らかにすることができた。また、近年、発掘調査が急速に増加している北のメンフィス地域の新王国時代の墓域を踏査することで、南のテーベ地域の墓域との相違を明らかにすることを目指した。その踏査の過程で新王国第18王朝アメンヘテプ3世時代に、南のテーベで岩窟墓造営に従事した絵師が、メンフィスの墓の造営に関与した例が判明した。これまで同じアメンヘテプ3世時代にテーベの岩窟墓にメンフィスの墓の形式が取り入れられたことが知られていたが、墓の造営に南北2つの中心であるメンフィスやテーベの職人の相互交流があったという新事実を提示することができた。また古代エジプト新王国時代で最も大きな革新時期である第18王朝アメンヘテプ4世(後のアクエンアテン王)による「アマルナ時代」を境として、墓の再利用が盛んに行われるようになること、墓の機能や葬送慣習に変化が見られることなども明らかになった。アクエンアテン王がテーベに造営したと思われる王墓についても検討を行ったが、従来とは異なる結論を導き出した。
|