研究概要 |
本年度の主な目的は,1800年代初期の択捉島のアイヌ社会を事例に和名化の展開過程を示すことであった。1800年代初期の蝦夷地において最も和名化率の高かった択捉島の場合,寛政11(1799)年にはシャナ集落で31歳の男性が和名を保持していたのが最初であり,寛政12(1800)年には和名化はまず5歳以下のまだ名をもたない人々から導入され,それから享和元(1801)年に11歳以上の人々に展開した。寛政12年には24集落のうち23集落で和名保持者が確認され,和名保持者の空間的拡散はほぼ限界に達した。和名を保持する和名化と,風俗を改変する改俗は区別される。寛政11年のシャナ集落における31歳の男性は和名保持者であり,かつ改俗をしていた。寛政12年に生じたのは3人の男性が改名および改俗をしたほかには,ほとんどが10歳以下の和名化のみであった。享和元年に生じたのは11歳以上の改名および改俗が主であった。享和元年に24集落のうち22集落で改俗者が確認され,改俗者の空間的拡散は和名保持者の空間的拡散より1年ほど遅れてほぼ限界に達した。寛政12年の和名保持者の多くは戸主の息子・娘であり,役職者の家の戸主は一人も和名化していなかった。和名化は役職者との関係で注目されてきたが,和名化の展開初期におきては非役職者である幼少の人々からはじまっていたことが判った。このような1800年代初期の和名化の展開過程は,安政2(1856)年から開始された2度目の幕府の同化政策によって生じた和名化の展開過程にもあてはまるものと考えられる。例えば,静内場所における和名化の展開過程などが類似した事例としてあげられる。
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