研究概要 |
今年度は主にドイツ語文献に基づきながら,中心地区理論がナチ・ドイツに受容されるまでの状況について検討した。それによると,Christallerは1932年に学位論文『南ドイツの中心地』を提出した後,1934年にペンク財団から助成金を得て,北方ラップランドへ調査旅行を行なっているが,彼はこれをきっかけにして,Penck, Volzらに代表されるベルリンやライプチヒの急進的民族主義(volkische)地理学者たちとつながりをもつようになった。1935-1937年には,ベルリン市政学研究所で歴史地理学者のVogelを助けてドイツ民族の生存圏に関する地図作成に携わった。そして1938年には,ナチスの地理学者で,Heideggerの後,フラクブルク大学の学長を務めたMetzの仲介により,同大学市政学研究所の助手の職を得,行政領域の在り方を考える行政地理学の分野を興そうとした。Metzはまた、1936年に開所した国土調査全国共同研究所フラクブルク大学支部長も努め,Christallerを西南ドイツの地域研究に参加させた。一方,国土調査全国共同研究所所長のMeyer(ベルリン大学)は1936年頃にChristallerと知り合い,彼の中心地理論に注目し,所内の研究グループの中に中心地を研究するグループを設け,座長のChristallerの下,国土計画への中心地理論の応用可能性を検討させた。地理学者のGeislerも参加していたグループ内では,中心地理論に対して賛否両論あったが,一定の評価を得、1939年9月のポーランド占領後は,東方占領地の集落再編計画に中心地理論は応用されようとした。ポーランド語文献によれば,それに先立ち,1937年にはポーランドと国境を接するシュレージェン地方において防衛上の観点から中心地網の整備案が,国土調査全国共同研究所の命を受けたブレスラウ工科大学の研究者たちによって作成されていた事実が判明した。
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