ドイツの憲法上の所有権保障についての枠組みは、1981年の連邦憲法裁判所「砂利採取決定」によって基本的な転換を遂げたとされ、「砂利採取以降」という時代区分が語られるほどである。たしかにこの決定以前においては、連邦通常裁判所が形成してきた判例法が一般に支配的な所有権保障の枠組みとされており、そこでは日本におけるのと同様な「特別犠牲説(ドイツでは閾値理論と呼ばれることが多い)」によって、補償を要しない所有権制限と補償を要する収用との区別がなされてきた。本研究においては、この「砂利採取決定」の前後によって所有権保障法理の発展を区分する大まかな概観を、さらに歴史的に詳細に検討することを試みた。 それによって明らかになったのは、連邦憲法裁判所は、既に「砂利採取決定」以前に、すなわちおそくとも1968年のハンブルク堤防事件において、連邦通常裁判所とは異なる独自の所有権保障の枠組みを提示していたこと、さらに立法による所有権の変更という点については、さらに以前から「じゃ採取決定」と同様の立場を示していた、ということである。これらの連邦憲法裁判所の判例の動きは、学説においても、とくに後に連邦憲法裁判所裁判官となるレルケ・オスターローによって鋭く捉えられ、オスターローはその博士論文において、「砂利採取決定」と同日に出された「義務献本決定」の提示した補償義務を伴う内容規定という新カテゴリーを、連邦裁判所に先立って提示していたのである。 「砂利採取以降」の時代においても、所有権保障法理は徐々に発展を見せている。とくに収用規範の守備範囲が狭められ、内容規定の射程が拡大させられていることが特徴的である。
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