研究概要 |
昨年度は,現代の民主主義理論と環境倫理との緊張関係を解明するうえでカギとなる「進歩」概念を追究することに目標をおき,進化論およびダーウィニズムにかかわる議論を再検討した。ダーウィニズムの自然観・生命観は,「健康や有益な特徴を導く遺伝子をもっていれば,人々の人生はもっとよくなるはずだ」と考える現代の優生思想の基礎にもなっている。 昨年度後半から,このような優生思想の現代的展開をも念頭におきつつ,バイオ・テクノロジーや市場原理主義が引き起こす現代の規範的諸問題に対するダーウィニズムの規範的含意についてモノグラフを執筆してきた。本年度は,このモノグラフを『リベラル優生主義と正義』として完成させ,2007年1月にナカニシヤ出版から公刊することができた。 同書に言うりベラル優生主義とは,個々人の持つ「生殖の自由」をラディカルに拡大して,親は遺伝子テクノロジー--とりわけ生殖細胞系列遺伝子工学--の力を借りてわが子のためにその遺伝的特徴をも選択することさえ許容されると主張する立場を指している。リベラル優生主義が定義上,生物学的な人間本性の操作・改変を射程に入れている以上,リベラル優生主義の是非を問うことは,人間本性とはそもそも何か,そしてそれは神聖不可侵のものなのかという問いを必然的に呼び起こすだけでなく,「自然に対するあくなき制御」という近代的な「進歩」理念を根本から考え直すきっかけになりうる。 近代優生主義の伝統は,人間は自然選択に代わって自らの「進化」をコントロールできると主張してきた。リベラル優生主義も同様に,将来の人間社会は生殖細胞系列遺伝子工学の利用によって人類の「自己進化」を遂げることが可能だと言い放つのであれば,人類はまた,その自己進化の「道筋」や「程度」に関してもコントロールすることが当然に可能なはずである。人類の野放図な自己改造は,決して人類の「運命」でも「必然」でもない。
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