本研究では、まず1880〜1900年頃の日本における社会ダーウィニズムの受容に関して、従来考えられてきた英国のハーバート・スペンサーの影響、およびドイツ圏のグンプロヴィッツ等の影響だけではなく、英国経由のコント主義受容という面を重視し、特に、英国のフレデリック・ハリソンなど、大学出身の知識人で、政治的にはリベラルな、しかしコント主義的エリーティズムと歴史理論を核にした主張が、日本の知識人にどうおよんでいるかについて、検討した。 単純な、コント理論あるいはスペンサー理論の受容ではなく、英国の論壇での多様性のある議論によって、階級意識やエリートのとらえかたに多様性と対立が見られるコンテクスト自体が、日本に受容された面があることを発見できた。 従来の研究では、東アジアにおける社会進化論的議論に対して、西欧のコント型実証主義的歴史観およびダーウィニズム的進化史観が混然となって、単線発展的な文明論を形成し、それが先進国への経済的軍事的キャッチアップを重視する国際社会認識の基礎をなしたとする性格付けが支配的であったが、実際にはコント主義における人類の知的発展を強調する知的エリーティズムと、よりスペンサー的な個人間の競争的契機を重視する自由主義的主調はしばしば齟齬をきたし、また競争を発展の契機として重視する場合も、その基礎単位を個人とするか集団とするかではまったく異なる政治的意見を形成したことが明らかになった。そういった政治的意見の多様性と相互の対立は、19世紀後半の東アジアにおける国家と社会の関係に関する思想的な多様性と対立軸の形成に明らかに強く作用している。
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