冷戦終結後のヨーロッパの東方拡大により他の東・中央ヨーロッパ、バルト諸国と並んで、ラトヴィヤは2004年5月1日にヨーロッパ連合に正式加盟を果たした。これは、1991年に、ソ連から独立を回復してからのラトヴィヤの外交政策の最優先事項であった。このラトヴィヤの独立回復とその後の国家形成は、戦間期に独立をしていたラトヴィヤ共和国をその存在基盤としている。したがって、とりわけ、独立回復後の歴史の見直しにおいて、この「国民国家」ラトヴィヤが、いかに苦難の中から独立を勝ち取ったかという「国民の歴史」が重視され叙述されているのが現状である。このような描き方は、他のバルト諸国の歴史叙述も含めて、一般的なバルト諸国の国家形成史として、冷戦期は欧米の亡命者によって示され、冷戦終結後は、地域内で現われてきている。さらに、こういった歴史叙述の傾向は、戦間期の独立時代にみられたような国民国家としての「国民の歴史」の叙述を想起させるものであり、その歴史観の復活のようにもみえてくる。20世紀末のこの現象は、ラトヴィヤにとって、まさにソ連からの分離・独立回復としての思想的な裏づけをするための政治的な欲求の発露に他ならなかったのである。 ところが、実際のラトヴィヤの独立経緯を歴史的な史実に基づいて考察するならば、果たして、国家形成を目指して独立したのかという疑問がわく。また、欧米の研究者が大国のパワーポリティックスの視点に立って国際政治的な観点から叙述する時、ラトヴィヤをはじめとするバルト諸国の独立は偶然の産物であるという主張にも疑問が生じる。これらの疑問に対して、著者は国際関係史の視点から次のように考える。ラトヴィヤ人の民族意識そのものは確かに19世紀後半から育ってきていたものの、実際の国際関係の複雑な動きとラトヴィヤ人の利益を反映するような主体的な動きとの複雑な絡み合いが、歴史的経過の中で係わり合いながら展開した結果、ラトヴィヤの独立に至ったと考えるのである。換言するならば、ラトヴィヤ人としての共通のアイデンティティや地域的な一体性への要求は展開されながらも、国民国家成立に向けての準備ができていないままに、複雑な国際環境の波間に投げ出されたラトヴィヤ人が、歴史の流れの中でラトヴィヤ人の利益を主体的に反映できるのは国民国家であるという理解に至るという経過こそが、独立国家成立への重要な背景となるのである。従って、国家基盤の脆弱性が、地域協力への関心へとつながっている。
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