本年度は、資料収集および山林資源の賦存状態の概要把握に重点を置いた。 資料収集は6回にわたって実施し、対馬歴史民俗史料館に保管される宗家文庫から関連資料を収集した。農村の実態を知るための基本史料である郡奉行所毎日記を中心に、約200点の史料、2万4000コマを撮影した。撮影史料のうち、約4分の1については、インデックスの入力が終了している。また、現地調査および関連資料収集のための調査を、各1回実施した。 山林資源の賦存状態については、以下のような事実が判明した。西日本一帯では、17世紀半ばまでに山林資源の枯渇が顕著になり、各地で用材や薪の移出規制が始まった。その余波を受けて、対馬からの炭や薪の移出が増加し、1670年代には、炭および生松を割った薪の移出を禁じるなど、対馬藩も山林資源の枯渇を防ぐ姿勢に転換した。しかし、薪自体の移出は、その後も続いた。農民が銀納する年貢未収銀や頭銀などは、他国船への薪売却代金で賄われていたため、一定程度の薪移出は藩財政の観点からも必要だったからである。しかし、1680年代には、上方の薪値段上昇によって来航する他国船が急増し、対馬藩は、薪値段を上方の価格に連動させ、運上銀を引き上げて移出量の抑制を図った。しかし、伐採適地が奥地へ移動するなど、その後も山林資源の枯渇は進み、最終的に薪を積み出す船の総数を制限するにいたった。こうして18世紀初頭には、農民の再生産および対馬藩の財政を支えていた山林資源も、資源制約の壁(マルサスの壁)に突き当たることになった。
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