第二次大戦の敗戦によって、ドイツはオーデル=ナイセ線以東に広がる旧ドイツ領の四分の一に及ぶ領土(これを「東方領土」と呼ぶ)を失い、その領土を含めた東ヨーロッパ一帯から大量のドイツ人が強制移住(これを「追放」と呼ぶ)させられた。本研究では、第二次大戦直後から現代に至るまで、ドイツ連邦共和国の公共的言論の場においてドイツの東方領土をめぐっていかなる議論が行われてきたのかを検討した。1960年代の初頭まで、連邦共和国政府、主要政党、国民世論の圧倒的多数がオーデル=ナイセ線を国境として承認せず、東方領土の回復を主張・支持していた。しかしそのような状況は1960年代に大きく変化し、1970年ブラント政権の下で、暫定的ながらオーデル=ナイセ線を承認することになる。しかし国境承認を拒否する勢力はその後も法的原則論に依拠して東方領土に対するドイツ人の諸権利を主張し続けた。連邦共和国がオーデル=ナイセ線を最終的に承認するのは、1990年の統一の直後であった。それまでの間、連邦共和国の国内では、主流である国境承認派と、非主流の非承認派が対峙し続けた。本研究では、東方領土への領有権の主張する言論と東方領土の「放棄」を進める言論の双方において、ナショナル・アイデンティティの概念がいかなる役割を果たしてきたのかを分析し、連邦共和国における東方領土に対するスタンスの大きな変化は、ナショナル・アイデンティティの布置状況の変化に連動していると分析している。ナチス以前の「1937年のドイツ帝国」の存続という前提に基づいて「ドイツ」を理解する「帝国アイデンティティ」が連邦共和国建国当初は支配的であったが、1960年代頃から、ナチス犯罪という過去を「克服」することをドイツ人の「使命」ととらえる「ホロコースト・アイデンティティ」が優勢になっていく。後者のアイデンティティは東方領土を「放棄」することを正当化する際の妥当性根拠となった。国境を最終的に確定した後の現在においても、二つのアイデンティティは、ドイツの「過去」に対して異なって観点(片やナチス犯罪を戦後ドイツの出発点と見なし、片や「追放」の歴史を復権させることでそれに対抗する)を提起することによって対立を続けている。
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