『時事新報』に掲載された三回にわたる資産家調査(明治34年、明治44年、大正5年)、および、人事興信所から刊行された『人事興信録』、さらには、重要な補足的資料を検討し、それぞれの調査の特徴や資産家を掲示する表現の手法、そして調査の社会的な影響や衝撃を考察した。そのなかで、明治・大正・昭和初期と時代が進むにつれ、資産家の上位に名を連ねる個々の実業家(および華族)にたいする注目が増し、金満家としての彼らの希少性-言ってみれば、資産という基準からみたエリート性-が注目される時代を迎えた点を指摘した。具体的な内容は、次のとおりである。 『時事新報』等に掲載された資産家調査の結果(いわゆる「資産家番付」)は、資産家たちの実名を、金銭的な成功者として、あるいは資産形成の模範者として庶民大衆に伝え、文明化の時代を生きる人々の金銭的な到達点を示した。人々は「資産家番付」というメディアをつうじて、金銭的な成功者とは誰かを知り、また、金銭的な成功とは何かを"想った〃のである。明治の半ばでは、資産家たちの存在は文明国の証であり、また、彼らは目指すべき目的であった。しかし、成功のモデルである彼らが実在する資産家であることは、彼らの私的生活をのぞき見ようとする誘因になる。金銭的な成功者は、一方で社会における稀少なエリートとして英雄視され、ときには偶像化されるが、他方では、同時代の生活者として常に注視の対象となり、彼らの私生活は暴露的な関心にさらされる。「資産家番付」の公表は、資産家の偶像化と彼らへの注視、そして私生活の暴露という過程に拍車をかけたと言えよう。彼らの富は大正から昭和へと時代をへるにつれ、巨富へと膨張していき、彼らはもはや目指すべき目標ではありえなくなった。したがって、彼らの私生活への暴露的な関心と監視のまなざしは一層強まる傾向にあったのである。
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