今年度の研究では、近代日本の代表的実業家、安田善次郎および大倉喜八郎を取り上げ、彼らの社会的・文化的自己定義について考察した。そのなかで、金銭的な成功者としての彼らのアイデンティティとその矛盾を検討した。 彼らの共通点は以下の点にある。(1)実業の世界で頭角を現すなかで社会的・経済的に影響力ある地位に就任した。その点で、彼らは実業界という固有の領域におけるエリートであると同時に、明治以降の新時代を先導するリーダーでもあった。(2)徳川期における商人身分の劣位からすれば、こうした彼らの地位上昇は、維新以降の階層秩序内部の序列移動のなかでも群を抜いて際だっていた。(3)彼らは自らが帰属する階層を上層社会として定義し、その階層にふさわしいと思われる高級文化を模索しながら創造していった。 これらの点は、エリート実業家としての彼らの野心のあり方にも強く反映している。彼らは維新前に実業を志したアスピラントであったが、同時に、公的に権威づけられた模範的実業家として、自己の事業展開を再定義していかなければならなかった。当然、彼らには、国益につながる事業のあり方を意識する必要があった。また、同時に、模範的な野心のあり方をも呈示する必要があった。産業化の推進力となるのはストライキを誘発するような雇主・従業員関係ではないという論理、そして、海外への事業展開は実業エリートに課された使命であるという論理を、彼らは頻繁に使用する。これらには、自らの事業のあり方を国益に直結するものとして再定義するという彼らの姿勢を確認することができる。さらに、そうした論理を背後から支えるものとして、個人的な献身というプレモダンな観念が導入されていることも特徴的である。
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