本年度の研究においては、茗荷谷文書と『文教の朝鮮』をもとに、朝鮮植民地末期の教育政策意図を瞥見し、専門学校、中等学校の理科系、農工業への転換がなされ、徴兵制という事態の先行によって、結局実現はされなかったが義務教育制度実施が宣言されたという状況を明らかにした。 この時期は、日本国内においても、学校教育が機能停止する時代であったとはいえ、その中においても、理工系の必要は感じられているわけではあるし、徴兵制とのかねあいから義務教育も必要であることは認識されている。1997年前後、韓国の経済史学において植民地近代化論が課題となったことがあったが、物理的インフラのみでなく、教育を人的資源の観点からとらえ、植民地教育はどんな人材を育成しようとしていたかを改めて検証する必要がある。その際には、中等、専門教育における日本人と朝鮮人の在学比率も、植民地教育の特徴を示すものとして理解しなければならない。 残された課題としては、本年度はSARS等の関係で、国外調査が出来なかったため、国外資料の調査を進めること、ま日本国内においても国立公文書館所蔵の枢密院文書とのつき合わせ等がある。この時期は「内外地行政一元化」が主張された時期でもあり、朝鮮への徴兵制実施に見られるように、朝鮮総督府と日本帝国政府との植民地認識、また政治意思の食い違いを明らかにしていく必要がある。
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