日本の朝鮮植民地支配は日本の敗戦によって終末を迎えた。しかも、その末期は戦時体制の中であった。そのために、当初の朝鮮総督府の計画より前倒しされた義務教育制度実施の宣言がなされるなど、戦争遂行のために、支配のための教育の姿が直截に現れた時期でもあるということができ、植民地教育制度の本質を見ることができる。しかし、この時期の記録はほとんど残されていない。2001年10月、外務省外交史料館において公開された「茗荷谷研修所旧蔵記録」と題される文書群には外務省、興亜院、大東亜省の対中国・満州経済活動に関する文書、拓務省、内務省が統理した植民地行政に関する文書、外務省の国際連盟関係記録などが収録され、「財政、経済、産業、貿易」を内容とするE門が中心ではあるが、教育関係のI門には植民地末期の朝鮮・台湾における植民地教育政策資料が含まれている。この教育関係資料は、従来資料が最も手薄だった時期の資料であり、きわめて貴重なものである。 ここには、勅令である朝鮮教育令の枢密院審議のための説明資料が含まれている。もちろん、枢密院審議のための資料という性格から、総督府内部の議論までが収録されているわけではないが、少なくともその時点での朝鮮総督府の現状分析と、それに対する施策と朝鮮総督府の意図が記されている。 本研究においては、これらの「茗荷谷研修所旧蔵記録」所収の文書を手がかりに、『文教の朝鮮』など、当時一般に公表された資料もあわせて、植民地支配末期の教育政策を、義務教育制度実施、および戦時下の中等教育政策に分けて明らかにした。先に記したように、これらの政策は、教育に対する国家の要求があらわになる戦時下という時代にあって、植民地教育の本質をも明らかにしているものである。
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