朝鮮植民地末期は記録がほとんど残されていないため、具体的な教育活動を知ることが非常に困難な時期であった。2001年10月、外務省外交史料館において「茗荷谷研修所旧蔵記録」と題される文書群が公開され、本研究は、この資料に基づき植民地末期の教育政策を明らかにした上で、その政策の実施過程を明らかにしようとした。 この時期の学校設立状況等を明らかにするためには、1944年度以後は『朝鮮諸学校一覧』も利用できず、『朝鮮総督府官報』への学校設立の記載もないため、史料ではなく、解放直前に設立された学校の後身校の設立由来調査等による必要があるものと考えられた。 ところが、この時期の学校設立の実態を一地方についてであるが、明らかにする書類が存在した。それは韓国・国家情報院に保管されている『国民学校設廃』(1940年、1943年、1945年)という文書綴りである。同文書は忠清北道内務部学務課が作成し、その後、忠清北道教育委員会、そして文教部、国家情報院へと引き継がれたものと思われる。1941年から解放までの忠清北道における全学校行政でないとしても、当時の学校行政をうかがうことのできる史料である。 本研究では、これらの資料に基づき、植民地下においては実現されなかった義務教育制度ではあるが、その実施のために、旧来の私立学校、また学校系統とは別系統とされていた簡易学校等を国民学校へ改編し、国民学校体制を整備しようとする過程を明らかにした。
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