本研究は近世城下町の設計原理の解明を目的として次の3課題を明らかにすることを目標とした。(1)城郭の位置決定法(2)城郭・城下町の主要施設の配置法(3)町割・街路の線引きの方法である。以上の研究課題に対して次の4仮説をたててこれを実証する方法とした。(1)城郭の中心天守の位置決めは城主崇敬の古社古刹と視軸を用いて決定されたのでは、(2)天守の位置決めは城主崇敬の古社古刹とα三角形60間モデュールを用いて決定されたのでは、(3)城郭・城下町の主要施設(軍事施設と社寺)の配置は視軸とα三角形60間モデュールを関連づけて配置されたのでは、(4)町割を決定づけた街路の線引きは天守など主要施設を基点としたヴィスタ並びに視軸とα三角形60間モデュールを関連づけて計画されたのでは。以上、独創的な仮説をたててこれを実証した。その研究結果の概要を次に列挙する。(1)視軸によって天守位置が決定されたのは長浜や中津等織豊系の城下町に際立っており、α三角形60間モデュールによって天守位置が決ったのは篠山や伊賀上野など藤堂高虎の設計に際立ち、慶長14(1609)年以後この方法が主流になった。(2)天守を基点に視軸によって軍需施設(門櫓)が配置され、一方、城主崇敬の社寺は天守を基点にα三角形60間モデュールによって配置する方法が特徴的にみられた。(3)町割は天守からのヴィスタで本町などの基軸が設定された場合(長浜等天正〜慶長初期)と、主要施設からのヴィスタによって町割の基軸が設定された場合(伊賀上野・明石等慶長14年以後)、α三角形60間モデュールの適用(中津、府内)に類型化される。(4)築城期における設計技法の考察からダイナミックな変化が明らかになり、また原町割からの変容過程の考察からその変容の法則性を解明しえた。一応の研究成果は得られたが、200余の城下町で史料収集と調査はできたもののここに収めることが出来たのは管見に触れた27城下町に止まっており、以後の課題として残された。
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