研究概要 |
本年度は,栃木県益子町に居住し,大正末年に60町歩大地主であった地主K家がいつごろ大地主として成立したかを解明しようとした.結論は次の通りである.K家は化政期から肥料穀物を扱う在郷商人として活躍,金融業を兼営して経営を拡大した.明治10年に7千円であった同家の資産は,24年に2万円,29年に3万円,38年には7万円を超え,30年間に名目10倍に増大した.かかる資産の成長の裏には次のような経営構造の変化があった.明治10年にK家は居村内外に10町余の耕地を所有していたが,貸付地は3町台で地主としての性格は弱く,資産の大半を貸金で運用する貸金業者であった.しかし10年代後半の松方デフレで貸金業は混乱し,不良貸付を整理した結果,約20町の耕地が集積された.こうして同家は明治20年に耕地35町・地価1万円を所有する地主に転じていた.明治20年代に15町,30年代にも9町を買い入れた同家は,明治末には50町余の大地主になっていた.なお,明治20,30年代には貸金業も再び展開し,地主経営と並ぶ営業部門になる.その構造は来年度に解明したい. では,大地主K家の成立はいつごろか.同家は明治20年に地価1万円の地主(これを大地主成立の指標とする説もある)ではあったが,その直前の土地集積は貸金業者として望ましいものではなかった.デフレ前の貸金業と集積地の地主経営では,利回りの差が大きかったのである.また20年代の初頭に,居村の農家の階層分化は明治末まで続く全過程の1/3を終えたにすぎない.さらに,20年代の買入地にはしばしば売戻し約定(売渡人が代金を何年かのうちに返済すれば土地を売戻す)が付き,これに基づいて買入地7町を売り戻すなど,不安定な地主経営を余儀なくされた.明治30年代後半には,かかる諸問題は解消して地主的土地所有として成熟・安定化し、本来の50町歩地主に到達することから,大地主K家の成立は明治30年代後半という結論が導かれた.
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