研究概要 |
昨年度は,栃木県益子町の60町歩大地主K家の成立構造を解明し,明治10年代以降,貸金業を基盤に土地集積したK家は,同30年代後半に大地主として成立したと結論した.本年度は,K家貸金業の展開構造を解明した. 地租改正が終了した明治10年当時,K家は約7千円の自己資金を年利20〜25%で貸し付け,近隣10か村の広さをもつ地域の重層的な資金需要(村内の農民は小口,村外は商工業者・富農が中心で比較的大口)に応じていた.貸金はK家資産の大半を占め,これを年率20%前後で成長させる原動力であった.しかし,貸金業は明治10年代後半の松方デフレ下に混乱をきたし,縮小を余儀なくされた(不良貸付を整理した結果,20町の耕地が集積され,K家経営の中心は貸金業から地主経営に移った). だが明治20〜30年代,K家の貸金業は衰退するどころか再び展開する.それは,農家相手の貸付(10年代同様,しばしば土地集積に結果した)を行う一方で,行政村域を越える地域の商工業者(益子焼関係者を含む)・富農に対する産業資金の貸付を強めるものであった.そのような低リスクの貸付の金利は15%以下へと低下したが,明治30年代末の貸付残高は4万円に達し,貸金業は地主経営と並んでK家経営の要であった.しかし,明治40年代以降のK家貸金業は,当主が銀行設立・経営に関与したことで,衰退に向かった. K家の貸金業を分析した結果,明治20,30年代に特筆すべき資本制の展開がなく銀行も未整備の地域では,地主貸金業は利子率を低下させながらも展開し,地域産業を支える役割を果たしたことが明らかになった.この事実は,地主貸金業にも,土地集積を目的とする高利貸というステレオタイプではとらえきれない側面があったことを示すものとして注目される.
|