今年度の研究は、まずJohn Silberの問題作Kant at Auschwitzを熟読することから開始した。彼は、ナチズムに対するカント哲学の無力を二つの点において語る。一つは、抵抗権を否定したカント哲学が(ナチス政権のような合法的に設立された)支配権力に対する抵抗活動を正当化できないこと、もう一つは、悪意をもった理性を否定するカント哲学ではヒトラーの行ったような極悪が説明できないことである。前者については、合法的な国家権力を打倒することがまさに法それ自体の破壊につながるというのがカントの思想の根幹であるがゆえに、容認せざるをえない。しかし、後者については批判的検討の余地がある。 まず、カントは批判期前から善と悪との対立が実在的であることを主張していた。この着想が例えば宗教論における根元悪という概念に発展していくとみることもできる。カントが否定したのは、悪の権化としての悪魔の存在である。なぜ否定したのか。それは、理性を凌駕する悪の存在が、人間どうしの和解を不可能にするからだと思われる。『道徳の形而上学』によれば、復讐や報復は神だけがなしうる業であり、これに対し「和解こそが人間の義務である」。どんな悪も人間的であり、であるがゆえにそれを赦すことは不可能ではない。 「アウシュヴィッツ」を赦すこと。あるいはテロを赦すこと。未だに多くの人が、これらの不可能を語っている。しかし、カントは人間の課題として、この不可能を何とかして乗り越えてみせよ、と言っているのである。過去に、しかも20世紀にその例がないわけではない。南アフリカにおける真実和解委員会(1995〜98)や中国・撫順における戦犯管理所および特別軍事法廷(1950〜1964)における瞠目すべき試みは、カントの遺言が今に生きていることを教えてくれる。
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