ナチズムは一般に理性の哲学を好まなかった。理性が個人の自由を基礎づけ、地域性や民族性をも超えた人間の普遍的価値を鼓舞するものだからである。理性に信頼をおく思想はしょせん"血と大地"という土着の原点を忘れた遊民の邪念にすぎないとされる。このことは、ドイツの劇作家ブレヒトが最終的には人間理性の力にナチズムに対する抵抗の砦をみていた点でも暗示されていよう。 ではカントの哲学は、どのような意味でナチズムの思想と対抗しうるのだろうか。それはまさに彼が18世紀という「理性の世紀」において遂行した理性批判の企てに証されている。なぜ理性は自身を批判でき、そしてこの自己批判が独善性を脱却できるのか。それは、理性が一元的な観点を超えてもう一つ別の観点をみずから構想する能力だからである。理性は自己であるとともに、他者となって自己を省みることができる。 カントはこうした理性のダイナミズムを17世紀の天文学者ガリレオの実験精神になぞらえる。ガリレオは天動説が疑わなかった地球の一元的中心性を、<こちら>以外の<どちらか>から観ることの同じ中心性を明らかにすることによって斥けた。見逃してならないのは、ここで一元論の否定が二元論の肯定に連動してゆかないことである。理性は二つの観点を外から比較できるのではない。そのような特別の視座は存在しない。あくまで一つの観点に立ちながら、しかしこれとは異なる観点から見た<こちら>の姿を理性は想像できるということが肝心な点である。 光の一元論、あるいは善の一元論を強く批判するカントも、一方で光と闇、あるいは善と悪との二元論を注意深く避けているが、これも以上のことと密接に関係している。
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