18世紀末から1830年代にかけて急速に誕生したロシア近代文学の成立を広く社会と文化の枠組み全体の中で考察したとき、そこには多くの文化史的契機が存在する。18世紀後半から出現したインテリゲンツィヤと民衆との関係性の成立がその一つであり、また、この両者が「出会う」場として、都市郊外に多数作られた貴族の領地屋敷の文化的機能も重要な要素となる。この貴族の領地屋敷(ロシア語でウサーヂヴァ)は、文字どおりロシア文化の揺籃の場としてロシア近代化の中できわめて大きな役割を果たしたのであり、本研究は本国ロシアで近年急速に見直しと総合的な研究が進んでいるこのウサーヂヴァを対象として、そこでの知的営為と多数誕生したウサーヂヴァ・ネットワークを視野に入れながら、特にその営為の代表的作品であるメモアールをテクストにしてこの時代と社会を記述することを目的とした。記述の軸となるのは、中央と地方、民衆文化の「発見」、個人と家族の「成立」、記憶のトポス、領地のミクロコスモスなどである。本研究を開始するにあたり、最初の作業としてはまずウサーヂヴァの時代的・社会的概略、ならびに文化史的役割について概観した。その際、ウサーヂヴァという言葉には中立的でなく「文学的」「感情的」な意味が付与され、ロシア人のメンタリティに深く根ざしたものとしてロシアの基層文化の解明にとってウサーヂヴァ経験が重要であるとの判断に達したことは成果である。さらに、18世紀後半・末から19世紀初頭にかけてのウサーヂヴァ全盛期に着目し、その時代を知る上で最高の資料であるアンドレイ・ボロトフの長大なメモアール「ボロトフの生活と出来事」を具体的素材として取り上げることとした。本年度はその資料学的サーヴェイのために、数版が存在するメモアールテクストの点検・確認、ならびに主要な研究文献の収集・整理を目標として、その作業はほぼ年度内に終了した。
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