本研究の目的は、特に炭鉱労働者(いわゆる「坑夫」)を事例として取り上げ、明治時代以降、日本の近代化過程において、「坑夫」のなかから近代的な<労働者>の意識がいかにして構築されてきたのかを明らかにすることにある。特に、日本社会の中で"イメージ"として流通する<労働者>像の生成とその伝播について歴史的に考察し、それを通じて固有性を持つ個人が、いかにして自らを<労働者>として自己規定するに至るのか、その意識形成とそのための条件ならびにそれらの歴史的変遷を解明することにフォーカスをあてる。 明治〜大正期に限定される2003年度の研究は、文字による記録を生み出し得なかった「坑夫」を対象とすることから、貞享・元禄年間(1684〜1703)から石炭の採掘が行なわれていた九州の筑豊炭田、高島炭鉱、三池炭鉱にフィールドをしぼり、当該地域における明治期以降の坑夫をめぐる労働環境の変遷と坑夫の働き方と彼らの表象のされ方について史資料の収集と解析を行なった。 "炭を掘る"という固有の「しごと」に就く「坑夫」達は、かつて自らを"ゲザイ人"と自己表象していたことは坑夫たちの口伝による「坑内唄」からうかがい知れるところであるが、そういった自己表象はその後の<労働者>表象とは明らかに断絶している。また、明治時代に急成長した日本人の炭坑についてのイメージは、連続する大災害や暴力的圧制事件と並んで悲惨な囚人労働と直接結び付けられていることが多いが、明治21(1888)年に雑誌『日本人』に掲載された松岡好一「高島炭礦の惨状」によって社会問題化を通じてなされた「坑夫」表象は、高島炭鉱の坑夫らによる主体化のプロセスには直接繋がらなかった。九州の炭鉱に坑夫らの主体化をもたらす契機となるのは、1918年のいわゆる「米騒動」と共に広まる友愛会活動を通じての「坑夫」表象であったと考えられる。
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