研究概要 |
ハイデガーの1929/30年講義『形而上学の根本諸概念』は、「存在者としての存在者」を開示する原的ロゴスの「として構造」こそは,動物的存在から人間的な現存在への飛躍と断絶をもたらすものであるとしている。そうして言語の構造こそが、人間存在と動物存在との絶対的断絶を、背後には溯源し得ない原始的事実として決定してしまったのだと主張され、そうした言語の生成を自然史的過程として問おうとする思考は封印されてしまっていると思われる。こうしたハイデガー的思考の枠組みを流動化し、"言語主体としての<私>もまた動物的生命との連続を欠いてはそもそも生成しえない"というもうひとつの原始的事実を究明することが本研究の目標であるが、その最初の課題として本年度は、上記講義において「石は無世界的であり、動物は世界に乏しく、人間は世界形成的である」というテーゼによって反復されるアリストテレス的な霊魂論の見取り図を、人間的な自己の生成の追究へと向けて批判的に検討した。動物的な世界の「乏しさ」を特徴づけるにあたりハイデガーは、動物の行動はその都度「何か」へと外向するものではあるが、決してその「何か」へと自己を「対置」する対象志向的な態度に媒介されておらず、それは、「として」構造に分節された人間の「振る舞い」とは異なる「行動」にすぎないと論考している。こうした論考は、人間の対象志向的な知の次元が、常に既に、身体能力それ自身の直接的存在の次元に基づけられていることを過小評価し、そもそも"私の身体それ自身は<私>の努力によって制御可能になったのではない"という原的な過去が、"心身結合体=心身分離体"としての人間の「自己」意識の生成にとって有する意義を看過していると言わざるをえまい。西日本哲学会誌に発表した論文において、私は、この論点の詳述と解明を、メルロ=ポンティとヘーゲルの試みを参考にして行った。
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