韓国や日本国内での調査を元に、韓国のナショナリズムについての考察をする。主に1930年代から1945年までの間に朝鮮人のアイデンティティがどのように変わっていったかが今年の第一の焦点となった。これについては比較分学会東京支部大会のシンポジウムですでに発表済みであり、本年度にはどう学会誌に論文として発表する。内容をかいつまんでいうと、崔載瑞(チェ・ジェソ)という人物が1941年に文学雑誌『国民文学』を編集している。これが日本語によるものであり、また朝鮮半島唯一の文学雑誌であったことから、彼を親日派として攻撃する向きが韓国では多い。しかし、筆者はこれを詳しく検討してみた。 彼が日本語で書いた評論集『転換期の朝鮮文学』(人文書院、1943年)に残された彼の文章を細かく見ると、これからの日本(1940年代前半-筆者註)は、自由主義ではなく「全体主義」国家として進まなければならず、国家のために臣民は存在するという。しかし、翻って東京は全体主義体制の中では朝鮮や四国、九州などと同じ一地方に過ぎず、これを中心と考えるのはヨーロッパを中心として考え、その文化を輸入することに腐心していた時代とレベルが変わらないと述べる。そして「新しい日本」では、「新民族、新文化の創設」が喫緊のこととされ、朝鮮が日本人になるだけではなく、日本人も「新民族」となるように変わらなければならないとする。これは「面従腹背の民族主義」として、極限状態の日本体制下でのぎりぎりの代案だと評価する可能性がある。彼も民族主義者だったのだ、そして一見親日派のような行動をとりつつも、辛らつな体制批判をしたのだと。筆者も当初はそう考えていたからだ。しかし、彼の著作を読み進める上で、彼の印象は変わってきた。彼がデビュー当時の朝鮮語による評論を読むと、彼には国家への信頼と、自由主義への疑問が見え隠れするからである。国民国家建設途上で植民地に転落した朝鮮では、国家と人民の関係性を規定することが十分になされていたとはいいがたく、むしろ儒教的な「修身斎家、治国平天下」といったものに近かったのかもしれない。現実に韓国で近代化の父といわれている朴正煕(パク・チョンヒ)の思想も、管見ではかなり儒教的なものである。崔の国家観はこのような状況と照らして考えると、日本によって与えられた「大東亜共栄圏」という体制を全的に受け入れていく過程とも取れるかもしれない。
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