今年度は前年度のデータをもとに、魏晋南朝における官僚のキャリアを可能な限り正確に復元し、特に兼任状況を明らかにする作業を中心に行った。従来は列伝のみを資料源としていたが、列伝中の官職Aから官職Bへの転任記事を本紀と照合した場合、必ずしもAからBへの転任ではなく、AからA+Bへの兼職を示す事例が多々見られた。散官(階官)と職事官という区別が制度上設定されていない魏晋南朝において位階制度の形成を考察する上では、こうした基礎作業の必要性が一層明らかになったといえる。 また、相国などの例外をのぞき、魏晋南朝ではほとんどの一品官が侍中や散騎常侍を兼任していたが、必ずしも職掌を期待してではなく、慣習として兼任しているだけであり、『宋書』礼志の記事によって、慣習の来源がどこにあるのかすら当時の人達でさえわからなくなっていたことが明かとなった。くわえて、侍中や散騎常侍に任命されたことが明記されていない一品官の人物も、致仕する際に貂蝉(冠につける羽根飾り侍中・散騎常侍に与えられる)を返却している例がしばしば見られ、上述の指摘の傍証となりえる。 上記の研究と並行して、本研究を北朝の遷官制度に如何に適合しうるかを展望するために、北朝政治史、制度史に関する先行研究を整理した。また正史である『魏書』『北斉書』『周書』『隋書』も検討し、その一環として北魏以来頻繁におこなわれる行幸に関して考察を加えた。北魏の行幸に関しては佐藤智水氏らの先行研究があるが、それらはいずれも孝文帝の洛陽遷都までを対象としたものであり、北朝史としての視点が欠けていた。そうした状況をふまえ、北魏における季節に応じての行幸が、北魏分裂後の後継王朝である北斉・北周に別々に改変されて引き継がれ、階の天下統一後に両形式の行幸が再統合されたことを論じ、「北朝皇帝の行幸」として公表する予定である。
|