本研究は、フランス史において歴史叙述がイデオロギー装置として機能し始める13世紀を対象に、「王国」と「地域」という二つのレベルで進められる史書編纂事業の分析を通じて、キリスト教的世界観が圧倒的な影響力を有する中世ヨーロッパにあって、国家/地域アイデンティティがどのようにして創造されていったのか、その具体的プロセスを問題としている。今年度は、地域レベルでの史書として、二つの『フランス年代記』をとり挙げた。この年代記は、王権側の『フランス大年代記』に先んじて編纂されたラテン語史料集成=翻訳型俗語散文体年代記であり、同名の作品が二点知られている((1)作者:ベチューンの逸名作家[1220-1223頃成立]、(2)作者:シャンティイの逸名作家[1217-37頃成立]))。 研究の結果、以下の点が明らかとなった。『フランス年代記』は、それらが参照した複数のラテン語史書の分析に際して取り上げられることが多く、年代記全体としてどのような判断基準で過去の史書をとりあげ、翻訳しているのか、といった点に関する分析は行われてこなかった。とりわけシャンティイの逸名作家の年代記はその存在が指摘されたのが最近であるために、研究そのものが少ない。しかしこの作品にはいくつかの興味深い特徴を指摘することが出来る。例えばこの作品は、結末部分にブーヴィーヌの戦いの勝利を記念して著されたラテン語詩『フィリピデ』の古フランス語訳が含まれている。従来、劇的な戦勝を拠り所に『フィリピデ』のなかで高らかに讃えられる超越的王権観は、『フランス大年代記』において初めてフランス語訳され、フランス語圏の読者に提示されたとされてきた。しかしシャンティイの年代記は、その約半世紀も前に俗語散文体が存在していたことを意味している。さらにこれには別の写本も存在していたことが確認されており一定程度の伝播も推定することが可能である。
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