益富城塞群の遺構調査の進行状況は、予備踏査段階で確認できなかった新規の遺構の発見によって、予定範囲の7割程度に止まった。それでも対象区域約120万m^2の内の9割(城塞群の外郭部)の踏査が終了し、該当個所の「縄張り図」(1/1000)の下図を作製した。 踏査の具体的成果として、外郭部の長城型防塁遺構の全容をほぼ掌握した。そして、幾つかピーク地形ごとに独立性の強い曲輪群が林立し、その間の尾根・谷地形に畝状竪堀群・土塁ラインを設けて曲輪群相互を連結させた、「城郭群」の形態を成すことを確認した。この形態は、自律性の強い各部隊(複数の領主)が相対的に緩やかに大同団結した姿を窺わせる。前回までの調査で確認した事項、すなわち、ごく短期間の内に一挙に構築されたと考えられること、畝状竪堀群を横堀・土塁とセットで使用する点で北部九州の在地系城郭の中で最高の技術水準にあることを考え合わせると、当初の予見どおり、当遺構が天正14年の九州平定軍の来襲を前に、秋月氏を盟主とする北部九州国人一揆衆によって構築された可能性が極めて濃厚となった。 また、現在、黒田氏時代に大改修された主郭部では発掘調査が行われており、大量の瓦が出土している。そこで今年度は、外郭部の調査に平行して出土瓦の整理・分類を行い、益富城と同時期に織豊系縄張り技術で大改修され、黒田氏の「境目の城」に取立てられた鷹取城の瓦との比較研究を行った。その結果、両城は類似した性格を持つにも拘らず、益富城には当時の最新の瓦工集団が、鷹取城には相対的に古式な集団が動員された可能性がみえてきた。しかも縄張りの洗練度からいうと、むしろ鷹敢城の方が"垢抜け"した最新鋭のプランである。これらの要因について、前者は、支城普請における城持ち大身家臣の自律性の強さが投影されたものであり、後者は、慶長期の築城における縄張り(設計)と普請(施工)がまだ一体の行為として整理・統合されていない状況を示唆するものではないかと考えた。この当面の成果は、今年度末に『城館資料学』3号に投稿予定である。 そのほか、全国城郭研究セミナーなどの研究会・報告会にできるだけ積極的に参加し、近年の城郭研究の問題意識や留意点を吸収することに努めた。
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