本年度は、作年度の群馬県注連引原II遺跡の報告をふまえ、再葬墓造営集団の居住システムの研究を進めた。まず、居住システムと住居構造については、東日本の浮線文期の住居形態は関東と中部で方形、そして炉をはさむ対称構造の柱穴配置をもつという特徴をもち、こうした形態の住居を「千網型住居」とよんだ。これは、浮線文系との交流のなかで東海地域の住居構造にも影響を与え、その後水神平式段階に類例が増加した。 次に、こうした集落の検討については、さらに群馬県妙義山麓地域において縄文晩期から弥生中期までの長期間について分布、立地等についてその推移を検討し考古学研究会東海例会において発表した。その結果、まず大洞C2式段階に急激な遺跡数の減少が顕著となり、その後弥生前期後半に遺跡数が増加ずる。しかし、その後中期にはいると減少しはじめ、再び増加するのは中期後半であることがわかった。こうした遺跡数の増減は、広域な範囲で同じように生じていることが予想され、実際に西日本等の事例と比較したところ同じような推移を確認した。こうした遺跡の増加と減少が繰り返される現象を「反復的遺跡増減現象」とし、特に遺跡が急減する背景にAMS炭素14年代測定で抽出される炭素濃度の異常が生じた時期にかかわる可能性が高く、それは太陽活動の異常と関連し、それが結果として地球環境の悪化をまねき遺跡の現象につながったと推測した。 生業については、国立歴史民俗博物館との共同研究において、土器に付着する炭素のAMS炭素14年代測定で抽出されるC13と窒素の濃度の検討により食性の検討を開始した。この研究は、動植物遺存体が少ない縄文から弥生への移行期には最適な分析方法であろう。今後は、これまで検討した集落と生業の研究がアジア全体のなかでどのように位置づけられるのか検討を行いたい。そして、理論的な側面について欧米の研究との比較も視野に入れる。
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