研究概要 |
『大阪地籍地図』は、明治44年7月に吉江集画堂から発行されている。「市街及接続郡部 大阪地籍地図 第一編」「市街及接続郡部 大阪地籍地図 第二編」「市街及接続郡部 大阪地籍地図 第三編」の分冊の体裁をとり、地図2巻と土地台帳1巻の全3巻から構成されている。本年度は、『大阪地籍地図』の「土地台帳」から大阪市接続町村の16ケ町村分を抽出して、1筆ごとの「町・村名、地番、等級、地目、反坪(数)、地価、所有者住所、所有者姓名」の8項目のデータをすべてパソコンに入力し、明治末期の大阪市接続町村における土地所有関係のデータベースを完成させた。本研究で完成したデータベースにもとづいて、同一人物による土地の所有形態を分析して、明治末期の大阪市接続町村における地主の存在形態について考察を加えた。土地の総所有者は6,084人となり、所有する坪数は1万坪以上が100人(1.7%)、3,000坪以上1万坪未満が,431人(7.1%)、2,000坪以上3,000坪未満が295人(4.8%)、1,000坪以上2,000坪未満が800人(13.1%)、500坪以上1,000坪未満が1,126人(18.5%)、500坪未満が3,332人(54.8%)であった。500坪未満の土地所有者が全体の半数を占めていたが、その一方で5万坪以上の大地主は6人であった。第1位の白山善五郎が所有する土地は554,602.11坪で群を抜いていたが、この人物が所有する土地は津守村にある。津守村は元禄期(1688-1704)に津守新田が開墾されており、白山善五郎が近世の新田開発の系譜をひく地主であることが判明した。1万坪以上の大地主の所在地は、大阪市内が22人、地元の町村が78人であり、大阪市内に居住しながらそれ以外の大阪市接続町村に大規模な土地を所有する地主が約8割に達していた。1万坪以上の大地主には、個人以外に土地会社の3社を見いだすことができ、住宅地開発に着手していたことも明らかになった。
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