本研究の目的は、村上春樹の「書き直し」に着目し、その前後の版を分析することで、村上文学の特徴を構造的に解明するところにある。村上文学では初期の作品に多く手が加えられており、特に単行本版と全作品版に大きな差異がある。その差異に関わるのが英語への翻訳である。 たとえば、三人の在日中国人との邂逅を語った短編の出発作『中国行きのスロウ・ボート』では、「僕」の呼びかける対象が全作品版で中国人から「僕」に変えられ、過ちをくり返す理由が「僕」自身に向けられている。この「僕」に焦点をあてた語りは英語訳版で書き直されたものだ。翻訳という操作を経て、語る主体の側から戦後日本の差別を問い直しているのである。同じく短編『貧乏な叔母さんの話』に、悪戯する弟から帽子を奪い返した姉が母から叱られる場面がある。「僕」は姉の姿に「叔母さん」の不幸を重ねるが、全作品版では「僕」自身の喪失に重ねられている。英語訳版でも雑誌版における中年の「サラリーマン」の挿絵が選集版で削除され、英語訳の“I”がステレオタイプな日本から「僕」のイメージに近づけられている。日本への逆輸入版に収められた本文は、文庫本版と別の、この英語訳版をもとにした全作品版である。遠ざかる戦後日本の歴史と向き合う若者の物語に書き直されているのだ。一方、同時期の中編『街と、その不確かな壁』の場合、他者が既に知っていた事実を後に「僕」が知る展開を、書き直された長編でも「僕」と「私」の双方でくり返し描いている。他者の知をめぐるドラマにおいて共通するために、中編は「志ある失敗作」として全作品版に収められなかったのである。 村上文学では全作品版を軸に語る主体を問う視点が取り込まれ、戦後日本における「僕」のドラマを炙り出している。村上は「僕」を書き直すことで、小説から別の可能性を引き出してきた。それは、読者が作る「僕」という、もう一人の〈村上春樹〉の物語である。
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