研究課題/領域番号 |
15H05698
|
研究機関 | 東京大学 |
研究代表者 |
小林 修 東京大学, 大学院理学系研究科, 教授 (50195781)
|
研究期間 (年度) |
2015 – 2019
|
キーワード | 水中特異的 / 不均一系触媒 / 不斉反応 / 不溶性 / 人工触媒 / 環境調和型 / ミセル / 質量分析 |
研究実績の概要 |
現在の有機化学は、有機溶媒を用いることを前提として体系化されてきた学問である。本研究ではいわば有機化学の「常識」を打ち破り、水を溶媒として用いる新しい有機化学を開拓すること、また水を単に有機溶媒の代替溶媒として捉えるのではなく、これまでの有機化学とは異なる新しい有機化学の中心に捉え、新学問領域の創成、さらには新しい有機化学の体系化を行うことを目的としている。本研究課題においてサブデーマとして設定された5つの柱(1)水中で有効に機能する触媒の開発、(2)水中での有機反応の反応機構の解明、(3)水中での有機反応解析のための新分析法の開発、(4)水中で機能する人工酵素触媒の創成および生体反応への応用、(5)水溶媒を用いる工業プロセスのための基礎研究について同時並行的に研究を遂行し、各分野で一定の成果を得た。各サブテーマ毎に具体的な成果を以下に示す。(1)と(4)に最も進展が見られ、論文発表に至っている。殊に(1)は本プロジェクトの基軸でもあり、各種分子変換手法において溶媒量の水が効果的に働く事例を集積し、水の効果を解明することに繋げるための枢要な位置付けであった。複数の論文発表に漕ぎ着けることができたと同時に、未発表分も含め有機合成手段における水の優位性を示すには十分な成果が得られている。ソフトな酸であるPd^<2+>は低電荷、大きな原子半径を有しており、ホスフィン配位子のようにソフトな塩基が安定化には必須である。しかしながら、一般的なホスフィン配位子の水への溶解度の低さ、酸化されやすさなど、水中での反応場構築は容易ではない。そこで界面活性剤によって形成される電気二重層を利用したカチオン性パラジウムの安定化を摸索し、パラジウムによるC-H結合宮能基化とこれまでの研究で得られた水中特異的な不斉制御に関する知見との組み合わせの結果、水中特異的な不斉反応の開発に繋げた。メタノール中で僅かに反応が進行するものの立体選択性は殆ど得られず、水中でのみ高収率・高選択性が発現した。また、2価のロジウム塩とルイス酸触媒であるSc(OTf)_3を用いた協働触媒系が水系溶媒中におけるケトンのヒドロアシル化に有効に機能することを見出した。本触媒系は、空気下でも失活せず非常に高い触媒回転数を示し、不斉反応への応用も可能であった。本系では水の使用が反応の進行に不可欠であることを見出しており、その性質に興味が持たれる。水による劇的な効果はナノ粒子触媒系にも見られ、イミンに対するフェニルボロン酸の不斉付加反応においてイミンの加水分解が競合し得る条件であるにも拘らず無水条件では反応が殆ど進行しないことを見出している。(1)で得られた水の優位性の根源を解明するための手段を確立すべく、(2)及び(3)を同時に進めている。(2)では不溶性触媒表面で進行する水溶液中での立体選択的触媒反応の理論的な解明を目指すべく、前提となるDFT計算を行った。計算により導き出された選択性は実験結果とよく一致しており、本丸である不溶性触媒表面における不溶性基質の反応に向けてモデル構築へとステージを移行できると考えている。(3)については質量分析を用いた反応速度測定法の実践的な応用として、水中での有機化学反応の速度論解析を行った。新規測定法は均一系、水一有機物の二相系、界面活性剤を用いたミセル系のいずれにおいても反応容器や撹拌条件を揃えることで再現性良く測定を行うことができた。さらにミセル系におけるスカンジウム触媒を用いたアルドール反応、および擬一次近似条件での無触媒Diels-Alder反応の解析を実施し、速度定数を実験的に求めることに成功するなど、測定法が実用に耐えうる水準であることを示した。(4)に関しては細胞環境と触媒化学との融合を目指すべく、ビオチン標識化したイリジウム錯体をストレプトアビジンでコーティングした触媒と組み合わせることで天然には存在しない人工的チモーゲンを創成する事を目指し、タンパク質加水分解に誘起されるイミンに対する不斉水素移動反応を実現することに成功した。本反応が基盤とするストレプトアビジン組み込み型触媒は化学的、遺伝的両面からの最適化が可能であるという特徴も有しており、変異導入とトリペプチドのスクリーニングによって最高で81%eeの選択性を得ることができた。(5)については、実用的な環境調和型酸化反応の開発を目指し、まずバッチ法にて活性メチレン化合物の直接酸化反応を達成した。本系を基にフロー法への適用を模索したものの反応媒体が水であるが故に系の混合に難があり、カラムを挟むなど効率的な反応進捗に向けた検討を行っているところである。
|
現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
1: 当初の計画以上に進展している
理由
本研究課題の主たる指針は、水中でしか進行しない反応、水中でしか発現しない選択性を追求すべく、水中で有効に機能する触媒系の探索と水中における新規反応場構築法の模索である。また基質すら溶けない不均一系反応故に、研究展開の足枷になっていた機構解明の不可能性に対して計算化学における新モデル構築や新規分析法の確立を突破口とすること、さらに水を媒体とする反応の根底にある生体中での反応系へのアプローチをも網羅した、極めて挑戦的なプロジェクトであった。そのような背景から、あらゆる面において難航が予想されていたものの、当初計画で理想形と位置付けていた、“水中でしか進行しない反応、水中でしか発現しない選択性”を前年度に引き続き複数見出すことに成功している。中でも、水中では不安定で加水分解が競争的に進行してしまう基質を用いる系やプロトン源が触媒サイクルに必要ない系においてすら溶媒量の水が必要であることは非常に興味深く、太古の地球において生命が水中にて誕生したように、化学反応現象と水との間には未だ解明されていない神秘が秘められているのかもしれない。また我々の知見を生体反応系へと応用することを見据えた場合、夾雑系でも有効に機能する生体親和性を兼ね備えた人工触媒の開発は永年の悲願でもあった。天然のタンパク質加水分解酵素によって駆動する人工的な不斉触媒作用の開発に成功しており、自然の叡智と我々の知見をうまく活かすことに成功した努力の賜物と言える。その他のサブテーマについても同時並行的に研究を遂行し、一定の成果を得ることに成功した。本特別推進研究にて得られた、期待以上の成果は、“水”を溶媒として積極的に活用することによって有機化学の新境地が切り拓かれる可能性を社会に提示するに足るものである。
|
今後の研究の推進方策 |
引き続き、水中で有効に機能する触媒の開発を主目的の一つとする。特異な水中反応場を構築することにこの問題の解決の糸口を見いだしており、この結果をさらに発展させ、新たな触媒分子を開発することで有効な反応場を構築することを目指す。さらに、触媒、両基質すべてが不溶である場合に最も優れた選択性を与える系、基質の加水分解が競合するにも拘らず無水条件では進まない反応経路が溶媒量の水存在下で優位になる系など、これまでの有機化学では説明のできない事例を多々発見することに至っており、今後の展開に向けて理論的な解明が望まれる。そこで(1)で得られた成果を基にサブテーマ(2)を推進し、得られた知見を再度、新規触媒・反応開発の(1)へと還元することを目指す。例えば、計算化学には“溶解”という概念が存在しない。基質と水(溶媒)との関係は、イオン性水和、水素結合性水和、疎水性水和の3パターンがあり、かつ分子構造によってはこれらの複合的な水和であることが推定されるため、基質の水和現象に対する熱力学的な理解と計算化学上の定式化を図ることが必要であると考えている。これら理論構築には時間がかかるため、基質が溶解していないものの、触媒が溶解していても反応が進行する系に対してまず解明を試みる。(3)で提案した手法では、より詳細なデータ集積を継続する必要性があるものの、一定の応用性を示すことができているのではないかと考えている。不均一系での反応においては活量を正確に論じる必要があり、また反応の初速度のみを議論の対象とすることで、反応の進行に応じた界面の表面積変化を排除し条件を単純化、水中での不均一系モニタリングに成功した。さらなる動態解析には、質量分析法を用いたモニタリングに併せて、粒度分布の経時測定など、系の不均一性を評価するパラメーターを導入する必要があり、(2)のテーマと合わせて系のモデル化と定式化の検討を進めたい。(4)においては、生体高分子を対象とした結合形成反応や細胞内のような夾雑系での分子変換を担う触媒開発を見据えており、大量に存在するイオンやアミノ酸残基などによる触媒の失活や官能基選択性の実現に向けて生理条件に近い37℃、緩衝液中などの条件での反応性拡張に関する検討を引き続き進める。(5)では混合効率を如何に改善していくかについて、連続フロー合成への応用を見据えた技術基盤の確立を目指す。
|