研究課題
現在の有機化学は、有機溶媒を用いることを前提として体系化されてきた学問である。本研究ではいわば有機化学の「常識」を打ち破り、水を溶媒として用いる新しい有機化学を開拓すること、また水を単に有機溶媒の代替溶媒としてではなく、有機合成のツールとして捉える新学問領域の創成、更にはその体系化を行うことを目的としている。本研究課題において、サブテーマとして設定された5つの課題、すなわち、(1)水中で有効に機能する触媒の開発、(2)水中での有機反応の反応機構の解明、(3)水中での有機反応解析のための新分析法の開発、(4)水中で機能する人工酵素触媒の創成および生体反応への応用、(5)水溶媒を用いる工業プロセスのための基礎研究、について同時並行的に研究を遂行し、各分野で興味深い成果を得た。各サブテーマ毎に具体的な成果を以下に示す。(1)、(2)、(5)に特に大きな進展が見られ、論文発表に至っている。(1)は本プロジェクトの基軸でもあり、各種分子変換手法において溶媒量の水が効果的に働く事例を集積し、水の効果を解明することに繋げるための枢要な位置付けであった。複数の論文発表に漕ぎ着けることができたと同時に、未発表分も含め有機合成手法における水の優位性を示すには十分な成果が得られている。例えば、アリールアルコールの空気酸化に対する高分子カルセランド型Rhナノ粒子触媒の活性は、水の添加によって発揮され、アルミナ担持Rhナノ粒子触媒についても同様の向上効果が認められた。水の役割は、相間移動触媒によって補助される二相系においてアルコールのケトンへの酸化を促進することができる媒体として説明される。また、Rh/Ag二元ナノクラスターをジエン構造を有する不斉配位子によって修飾した触媒を用いることで、ニトロオレフィンへの芳香族ボロン酸の不斉1, 4-付加反応を実現した。重水素を用いた同位体効果の実験からプロトン化段階が律速であり、また一方で求電子剤がα, β-不飽和エステルの場合にはプロトン化が律速段階ではないことから、本反応における水の重要性が強く示唆される。(1)で得られた水の優位性の根源を解明するための手段を確立すべく、(2)及び(3)を同時に進めている。(2)では不溶性触媒表面で進行する水溶液中での立体選択的触媒反応の理論的な解明を目指すべく、有機溶媒中でのDFT計算を行い、既存のCu(I)触媒による反応経路と新たなCu(II)触媒による反応経路が異なることを実証することができた。計算により導き出された選択性は実験結果とよく一致しており、本丸である不溶性触媒表面における不溶性基質の反応に向けてモデル構築へとステージを移行できると考えている。(3)についてはDirect Analysis on Real-Time(DART)法を用いた反応速度測定法の実践的な応用として、界面活性剤の存在しない水/有機層界面で進行する化学反応を対象とし、所謂"on-water"と呼ばれる現象についてアプローチできないか検討を進めた。本手法により得られた解析結果は紫外可視吸収スペクトルとの比較により興味深い知見を与えた。(4)に関しては、ビオチン標識化した貴金属錯体をストレプトアビジンでコーティング、加水分解酵素による活性化機能を搭載した人工チモーゲンを活用し、NADH再生や脱炭酸型水素化反応を試みた。(5)については、実用的な環境調和型酸化反応の開発を目指し、まずバッチ法にて活性メチレン化合物の直接酸化反応を達成した。Hf^<4+>による活性化や緩衝液中での効率的な二酸化塩素生成を見出し、本系を基にフロー法への適用を模索した。また、様々な固定化触媒、固体触媒を用いた反応開発を進めており、基質の溶解性が低い状態であっても水が有用であるという知見が種々得られている。加えて、水を用いる有機反応において長きにわたり議論になっている"on-water"、"in-water"の反応の分類について、自身の研究成果の他にこれまで発表されている反応例を網羅的に検証し、新たに体系化された水中反応の分類を提案した。
1: 当初の計画以上に進展している
本研究課題の主たる指針は、水中でしか進行しない反応、水中でしか発現しない選択性を追求すべく、水中で有効に機能する触媒系の探索と水中における新規反応場構築法の模索である。また基質すら溶けない不均一系反応故に、研究展開の足枷になっていた機構解明の不可能性に対して計算化学における新モデル構築や新規分析法の確立を突破口とすること、さらに水を媒体とする反応の根底にある生体中での反応系へのアプローチをも網羅した、極めて挑戦的なプロジェクトである。そのような背景の下、「媒体としての水の不可欠性」を提示する反応系が未発表データを含めて多数見出されたこと、基質や触媒などの低い溶解性ゆえに分光学的手法の通用しないブラックボックス化していた「水中反応」の世界に計算化学や質量分析法などを駆使して漸くメスが入り、知見が蓄積されつつあること、は大きな進展である。太古の地球において生命が水中にて誕生した事実はミクロ的には水中における幾重にも連なる高度な化学反応の結果と捉えることができ、化学反応現象と水との間に横臥する未だ解明されていない神秘に迫ることにも繋がる。その他のサブテーマについても同時並行的に研究を遂行し、興味深い成果を得ることに成功した。さらに、長きに亘り議論になっている"on-water"、"in-water"の反応の分類についてメスを入れ、本特別推進研究の成果を基に新たに体系化された水中反応の分類を提案することができた。本特別推進研究にて得られた、期待以上の成果は、“水”を溶媒として積極的に活用することによって有機化学の新境地が切り拓かれる可能性を社会に提示するに足るものである。
引き続き、水中で有効に機能する触媒の開発を主目的の一つとする。水中に反応場を構築しその特異性に着目することに解決の糸口を見いだしており、この結果をさらに発展させ、新たな触媒分子を開発することで有効な反応場を構築することを目指す。さらに、触媒、両基質すべてが不溶である場合に最も優れた選択性を与える系、基質の加水分解が競合するにも拘らず無水条件では進まない反応経路が溶媒量の水存在下で優位になる系など、これまでの有機化学では説明のできない事例を多々発見することに至っており、今後の展開に向けて理論的な解明が望まれる。そこで(1)で得られた成果を基にサブテーマ(2)を推進し、得られた知見を再度、新規触媒・反応開発の(1)へと還元することを目指す。例えば、計算化学には“溶ける、溶けない”という概念が存在しない。基質と水(溶媒)との関係は、イオン性水和、水素結合性水和、疎水性水和の3パターンがあり、かつ分子構造によってはこれらの複合的な水和であることが推定されるため、基質の水和現象に対する熱力学的な理解と計算化学上の定式化を図ることが必要であると考えている。暗中摸索ゆえにこれら理論構築には時間がかかるため、水中における不均一系触媒反応をターゲットとした固体触媒表面における化学反応、そこにおける水分子の役割について計算化学的に反映させることができないか検討を行う。(3)で提案した手法では、より詳細なデータ集積を継続する必要性があるものの、一定の応用性を示すことができているのではないかと考えている。不均一系での反応においては活量を正確に論じる必要があり、また反応の初速度のみを議論の対象とすることで、反応の進行に応じた界面の表面積変化を排除し条件を単純化、水中での不均一系モニタリングに成功した。さらなる動態解析には、質量分析法を用いたモニタリングに併せて、粒度分布の経時測定など、系の不均一性を評価するパラメーターを導入する必要があり、(2)のテーマと合わせて系のモデル化と定式化の検討を一層進める。(4)においては、生体高分子を対象とした結合形成反応や細胞内のような夾雑系での分子変換を担う触媒開発を見据えており、大量に存在するイオンやアミノ酸残基などによる触媒の失活や官能基選択性の実現に向けて生理条件に近い37℃、緩衝液中などの条件での反応性拡張に関する検討を引き続き進める。(5)では溶解性に起因する潜在的な問題を如何に改善に繋げていけるかについて、連続フロー合成への応用を見据えた技術基盤の確立を目指す。また、本研究課題が掲げる「革新性」について、特に水を反応媒体として用いることで得られる合成的優位性を編纂する作業を行い、総説に纏めている。
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