申請者は朝鮮通信使の日本使行中の詩文唱和において朝鮮側がどのような立場で臨んでいたか、申維翰の自作の再利用の問題を中心に調査および検討した。享保四年に製術官として通信使使行に参加していた申維翰は、泉南の大商人である唐金梅所に詩文を送っており、その詩文は『梅所詩集』という板本を通して確認できる。その詩文の中に「鼓琴歌」と題した作品があるが、これは申維翰が朝鮮において作った自作を一部再利用したものであることが申請者の調査を通して明らかになった。「鼓琴歌」は申維翰が朝鮮の李敬哉という人に宛てた「酔歌行」という詩とかなり随時している。一致する語句を文字数で数えたら108文字(全二十二句)が一致しており、語句が一致する箇所の配列も、概ね一致している。「酔歌行」の成立時期が定かではないが、状況からみて「酔歌行」が先で、「鼓琴歌」がそれを再利用したものと、推定される。 このような事例は詩文の専門家である申維翰でさえ自作の再利用を強いられるほど、通信使たちは納得のいく創作が難しい状況におかれていたことを如実に見せてくれる。申維翰は『海游録』において日本の文士との唱和の多忙さを吐露しており、納得のいくよい句がないことが苦しいとも述べている。このような問題意識は後の宝暦度の製術官・南玉の記録『日観記』にも表れている。南玉は、劣悪な状況の中で詩文の唱和をするしかないことの問題点を3点指摘し、詩文唱和の有り方を見直すべきだと主張している。 朝鮮通信使・とくに製術官たちは日本人との詩文の唱和を通して「国を輝かす」という期待および使命感を帯びて派遣されていた。しかし、実際の唱和の場面においては、凡作を量産するしかないという状況にジレンマを感じていたのである。今後の朝鮮通信使の詩文唱和に関する研究においては、そのような通信使たちの問題意識が通信使使行の有り方をどう変えているかより深く検討する必要がある。
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