産業革命以後、温暖化や海洋酸性化といった人類がもたらした環境変化による生物への影響は深刻な問題である。そのため、水圏環境の変化に対する生物応答とその進化の理解は将来の水圏生態系動態の予測に重要であり、温暖化対策に有益な知見をもたらす。しかし、先行研究の多くは表現型への影響にのみ着目しており、その遺伝的背景や進化に関する研究はほとんど行われていない。そこで、既に表現型への影響が報告されている巻き貝の仲間であるミジンウキマイマイ(Limacina helicina)に着目し、遺伝的多様性や酸性化による遺伝子発現への影響を明らかにすることを目的とする研究を行った。昨年度に引き続き、西部北太平洋亜寒帯域にてミジンウキマイマイの採集を行い、採集した個体をpHの異なる海水で10日間の飼育実験を行い、表現型と遺伝子発現への影響を調べた。その結果、低pH環境において貝殻の表面構造や炭酸カルシウムの密度への顕著な影響は見られなかった。さらに、遺伝子発現レベルでの影響を次世代シークエンサーを用いたRANseqにより解析したところ、貝殻の材料となる貝殻基質タンパク質(カルシウム結合タンパク質やコラーゲン結合タンパク質)や炭酸カルシウム結晶に必要な重炭酸イオンを供給するトランスポーターをコードする遺伝子の発現が促進されることが明らかとなった。この結果から、少なくとも短期的な低pH環境に対しては貝殻形成に関わる遺伝子の発現を促進することで貝殻の溶解を防ぐような防御システムを潜在的に保持している可能性が示唆された。
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