平成29年4月下旬から同年7月下旬までの約3ヶ月間、中華人民共和国中国第一歴史档案館(北京市)の所蔵史料「軍機処録副奏摺」および「軍機処満文上諭档」の調査・収集・分析を実施した。具体的には、ウリャンハイ(現ロシア連邦内トゥヴァ共和国・アルタイ共和国にまたがる地域に居住していたアルタイ系諸民族に対する清朝側の呼称)を媒介とした清朝・ジューン=ガル関係に関する史料に着目し、研究を実施した。これにより得られた新たな知見は以下の通りである。乾隆5年(1740年)の清朝・ジューン=ガル間の講和成立により定まった両者の「国境」に関する合意内容では、「ジューン=ガルに帰属するウリャンハイのアルタイ山脈山陰側での遊牧を従来どおり許可する」と定められていた。これは、当時ジューン=ガルに帰属するウリャンハイの遊牧地は、厳密な画定のみならずそのおおまかな範囲の指定すらなされておらず、くわえて講和成立以降も同山脈山陰側に設置されたままの清朝のカルン(哨戒所の意)線との間の境界も存在していなかったことを意味する。この「国境」に関する曖昧かつ危うい側面は、「国境」方面でのジューン=ガルとの密貿易の温床であり、なにより清朝にとっての安全保障上の障害であった。乾隆18年末のドルベト部帰順に端を発する「国境」の動揺は、かかる合意内容自体の不備が惹起したものとして捉えることが可能であり、その後の清朝の対応はその清算を試みたものであった。 また、前年度の研究実施によって明らかにした熬茶使節の活動実態とその影響について、平成29年9月に国内で学会発表を行った。
|