本研究の目的は以下の二点である。 一、J. S. バッハの個々の楽曲の様式研究に転回(声部交換)技術という一観点を加えること。即ちその楽曲に対し資料的、様式的見地からなされて来たあらゆる研究を踏まえた上で、とりわけ器楽曲の成立を巡る議論に新たな光を投じること。 二、バッハのヴァイマル時代を中心とした約二十年に亘る様式発展過程の一側面に、転回技術を主要着眼点として迫ること。その際、ヴァイマルでバッハと懇意な間柄にあり浩瀚な蔵書を誇ったJ. G. ヴァルターによる知識伝達の可能性に着目し、バッハのヴァイマル時代を、自身の演奏実践に根差した書法に厳格な対位法技術を織り込んでいった過程として捉え直すこと。 本年度の成果は以下の通りである。 一、ヴァルターが筆写した手稿から転回技術を扱った部分を検討し、音程への配慮が最低限にとどめられた「簡潔にして明快な」規則と、反行や逆行、拡大の可能性をも考慮に入れた「技巧的な」規則とが理論上区別されていたことを確認した。更にバッハやヴァルターが筆写あるいは所持していたと考えられる他者楽曲を分析し、実践においても見出されたこうした指向の差異について、即興演奏や、自らの学術性を知らしめることを目的とした出版などの創作背景を踏まえて考察した。 二、主題と対主題の転回可能性、不都合な響きが生じた際の修正の施され方といった観点からバッハの楽曲を分析し、そこに用いられた転回技術の厳格さが一様でないことを確認した。そして、上述の観点を中心に厳格さの度合いを示すファクターを設定し、楽曲を分類し、バッハの対位法書法の変遷が、大まかに言えば厳格さの度合いの低いものから高いものへと移行するいくつかのモデルによって解釈可能であることを示した。また、最も厳格さの度合いの高い楽曲においても、鳴り響きの多彩さを決して犠牲にすることのないような工夫がなされていることを確認した。
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