本年度は、昨年に得られた成果を踏まえて、自己知におけるヒュームの「情念」概念の解明を試みた。昨年度明らかになったことの一つは、自己についての知識をわれわれが得る際、情念が特定の役割を有していることである。しかし情念がときに自己知を促進することを示しただけでは、自己知にとって情念が本質的であることにはならない。そこで本年度は、情念が自己知にとって「必要」であるかどうか、そうであるとすればそれはいかにしてか、という問題を考察した。 この問題を考えるにあたって、まず主流の解釈に検討を加えた。主流の見解によれば、ヒュームにおける情念は、われわれが身体的、社会的自己であるということを知らせてくれるものである。情念なしではこれらの自己概念を得られないから、この意味で情念は自己知にとって必要である、と言われる。しかし検討の結果、自己の身体性や社会性についての認識は、情念が発生するための前提条件であり、情念によってもたらされるものではないことが明らかになった。 代替案として、以下の見解を得た。情念は激しい現象的な感じであるがゆえに、容易にわれわれの注意を捉える。それゆえ、類似した情念間の移行も容易である。情念はそれに対応する観念をもつので(たとえば嫌悪感には嫌悪される対象の観念が付随する)、情念間の容易な移行は、観念間の移行を促進する。このように、情念は、それが強く感じられるものであるという性格によって、ある観念を抱くことを容易にするのである。これを踏まえ、自己知つまり自己の観念をもつことは、情念によって容易になる。まとめると、ヒュームにおける情念は、われわれの自己への容易なアクセスにとって必要である、という見解を提案した。 以上の成果の一部は、トロント大学で行った在外研究で得られたものである。
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