律令期には、5世紀中頃に朝鮮半島からの技術移転によって生産が開始された須恵器と、伝統的な窯業生産品である土師器の2種類の土器が併存していた。前者はロクロを用いて作陶し、焼成は窯を用いた還元焼成で、後者は手捏ね成形を基本とし、焼成も密閉した窯を用いない酸化焼成を基本とする。このような製作技術について、比較されることはあっても、化学分析によって両者を比較する研究はなされてこなかった。本研究では、ガラスビード法による化学分析と電子顕微鏡を用いた混在物の確認により、須恵器には亜炭が含まれることや、土師器にはリンが多く含まれることを確認した。このことから、須恵器は山土を、土師器は田土を用いた可能性を指摘した。 窯を用いて製作された須恵器は、律令制下では貢納品として文献資料にも出てくることから、広域流通していた可能性が指摘されてきた。全国から物資が集まる平城京の須恵器研究では、これらの生産地推定の足がかりとして群別分類をおこなってきた。先行研究において和泉陶邑窯産と考えられていたⅠ・Ⅱ群のなかに、看過できないほどの奈良山諸窯産が含まれることを指摘した。 本研究では、発掘資料や採集資料などから、平城京近郊の須恵器生産を再考し、平城宮・京の基準資料との比較から、それらの窯の帰属時期を再検討した。その結果、奈良山東部窯の開窯は奈良時代前半である可能性が高いことがわかった。このような考古学的手法による推定を検証するため、蛍光X線分析による産地推定の手法を検討した。その結果、微量元素の差異から、加茂盆地周辺の須奈良山東部窯と陶邑窯については区別することが概ね可能であることを確認した。平城宮・京から出土した基準資料との比較により、奈良山東部窯の製品は、平城京造営直後には流通していた可能性が高いことがわかった。このことから、都城近郊型の須恵器生産は、平城京遷都計画に巧みに織り込まれたとの結論を得た。
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