手話に堪能な成人ろう者がろう学校幼稚部に勤務することは珍しくはないが、聴者の補佐役を期待されてであることが多い。近代学校教育の重点課題が音声言語の「表音文字」の教育であることを背景にろう教育も聴者が主導すべきだと考えられがちだからである。抗して「手話言語学」を論拠に「ろう文化」を主張する「手話言語条例」の制定が全国各地で推進されていくが、「ろう文化」の中核として示される手話はろう者集団内で生育しなければ体得できない繊細な言語であり、一般的な聴者には敷居が高い。こうして「聴者」対「ろう者」、「音声言語」対「手話言語」、と二項対立する社会状況があり、学術的研究はどちらか一方の側に立ってなされるのが一般的であるが、本研究は、対立図式を越える第三の方途をデリダ的「エクリチュール」の発想から模索した。 「手話言語学」は手話を言語と認めた功績を云々するが、依拠した言語学とは西欧形而上学が絶対的ロゴスを一方向的に伝達しうる媒体として音声的パロールを尊重した「音声中心主義」の学であることから、「手話には文字がない」と判断した。だが、ロゴス的パロールの只中にも時間的他者たちとの限りない意味生成を開く「エクリチュール」の胎動を見て西欧形而上学を脱構築したデリダ、さらに彼に先立つメルロ=ポンティの、「エクリチュール」の可能性の条件を間身体性に見いだす姿勢に依拠すれば、手話こそ、人間的パロールの「原エクリチュール」のありさまを集約的に開示している言語である。本研究はこの視座から複数のろうの保育者のふるまいの現象学的記述を行い、成人ろう者がろうの乳幼児に必要不可欠な文化的環境であることの自明性を論じた。その内容は同時に、聴者対ろう者の区分の手前の水準で、およそわたしたち人間のおとなが言語で分節化され常に新たに更新される世界に子どもを導いていく原型的ありさまの提示に他ならないのである。
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