平成29年度(本研究最終年度)の,カオバン省における調査を通じて,ベトナム側が中国との国境地帯で仏教寺院を新たに建立し,内部装飾に伝統的な漢字ではなく,ローマ字(クオックグー)のみを使用していることから,新たなアイデンティティの拠り所として仏教とクオックグーを利用しようとしていることがわかった。また,南シナ海問題に関しては,ベトナム社会科学アカデミー中国研究所,ベトナム外交学院での学術交流を通じて,中国が近年「九段線」に言及するのを控え,四沙(東沙・中沙・西沙・南沙各群島)が中国領であると主張するようになっているとの情報を得た。「九段線」に関しては,研究代表者の中央研究院近代史档案館(台北),フランス外務省外交史料館(パリ)における調査研究によっても南シナ海の領有に関する中国の主張を正当化するようないかなる根拠も見出すことはできなかった。 研究期間全体を通じての研究成果としては,以下の各点を指摘することができる。(1)ベトナム・中国両国間で人や物の移動が制限されていた時代(1950年代~21世紀初頭)にあっては,境域は両国間の国家関係を直接に反映する最前線として重要性をもっていたが,グローバル化や両国に共通する対外開放政策の進展につれて国家関係の最前線としての境域の地位は低下し,南シナ海問題のような境域における対立状況が存在していても,それが国家関係に直接影響しないという,両国関係の質的変化が生じたことが明らかとなった。(2)上記のような国家関係における境域の役割の低下の中で,ベトナム共産党は,仏教寺院の建立にみられるように,物理的な国境の保持以上に,精神的な国境意識の創出,すなわち中国とは異なる文化的アイデンティティの確立に力点をおくようになってきている。
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